アナタ書く人、ワタシカく人

ぼくらのおっぱい漫画家的良みらん先生が一般誌へと活躍の場を広げるそうで、大変喜ばしいことであります。しなしながら色々と不安に感じたりすることがなきにしもあらずんば弘法も筆の誤り。ぶっちゃけ漫画として面白い漫画を描けるのだろうかとか勝手なところで心配してみるもののエロを毎回ぶちこまにゃならんエロ漫画と違って枷なしに好き勝手描けるんだから大丈夫僕は信じて見守りますとも、とかそれ以外道はないわけですけども。

しかしながらある程度ページ数をエロにぶちこまずに済むということは、逆に色々と浮き彫りになる訳です。お話作りの実力とか。住み慣れた世界を出てそういう場所にいけるということは、わりかし勇気のいることだよなあと思って感心してました。それだけの勇気を、彼はどこから振り絞っているんだろうか。何かしらのきっかけはあるんと思うんです、きっと。それが何かなんてのはもちろんわかりゃしませんが。

勇気の源流。活動力の原点。そういうものって、誰にでもあるものなんだろうか。

自分にゃんなもんねーだろうなーとか思いながらコーヒーを啜っていたら記憶の扉が開けゴマ。あれは小学校3年生のときだった。なんてことはない、義務教育課程でよくある全校参加の作文コンクールに適当にやっつけた文章を応募しただけの事だ。自分で文面を眺めたときの感想は「汚ったねー字」だった。それは正にやっつけ仕事だった。

気がついたときには、少年の手には銀賞の賞状が握られていた。実にこれがいけなかった。少年は「あれ? ひょっとして俺人より文章書くのうまい?」と思い込んでしまったのだから。

いや、これだけなら少年の人生に影響はなかったのかもしれない。しかし時を経て間違いは決定的になった。中学校の卒業文集を作成したときだ。当時無駄な反骨心をメラメラ燃やしていたクソガキは「誰も彼もがどうせ体育祭がどうだの文化祭がどうだの卒業旅行がどうだのと書き連ねるに決まっている! ざけんな! んなつまらん文章書いて誰が読むんだ! 一人一人違うことを書けよ!」といきり立って、一人誰も書かないような文章を書くことでやっきになっていた。結果印刷所に担当教師が平謝りし放課後残されて作文する羽目になる。クソガキは書くのが遅かったのだ。その習性は今も残るところである。

出来上がった文集を前にクソガキは凹んでいた。自分が余りにも浮いている。もちろん予想通り皆は体育祭や文化祭や卒業旅行の事をさらさらと触れるに留め、無難な仕上りとなっていた。皆は既に、個性を発揮するべき場所はこのような所ではないことを知っていたからだ。絶望したクソガキはもう独りよがりの文章を書くことは止めようと、その筆を折ったのだった。

「的屋ー、卒業文集のあれ○○が褒めてたよ、面白かったって」

クソガキは筆を買い直した。又聞きだったが、それを褒めた人は決して親しい友人という訳でもなく、わりとただの知り合いだった。だから、決しておべっかでも愛想でもない、素直な感想なのだと判断した。してしまった。勘違いはこうしてクソガキの一部となり、クソガキは今でも独りよがりの文章を製造し続けているという。

人間何がきっかけになるかわかんないよね、というお話。